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裏切り

2023年最後のブログはまだとっておいて、罪の告白でもしようと思います。

俺1~俺8を裏切ってつみたてNISAを三か月前から始めたのですが、開始早々クレカの利用上限突破して引き落とせず終わりました。

まあ人並みにあがいてやるか、と利用上限の申請もして、結果はもちろん百発百中で落ちました。

つまり何が言いたいかというと――。

 

俺は俺だった。

お焚き上げ

例えば気持ちの良い青空が広がっているなか部屋にこもり切っていると、一日そのものをふいにしてしまったような気分になってくる。
常のように意味のないことをしようと、歴史に洗練を受けた意義深い小説を読もうと、生活の実際の部分に役立ち「優」に直結する資格勉強なんてものをしたとしても、今日一日そこにいた青空を見もせず、全身で感じ取ることができなかった日には、どれだけ価値のある日だったとしても、なにもかも全部を台無しにしてしまった気がするのだ。

だからそんな日には、どうせロクなことが待ってなかろうと俺は適当に歩くしかなくなる。

誰もが考えなくても意味について考えているものだと思う。いや、考えるより思うが正しい気がする。これをする意味、ここにいる意味、そんなことばかりを思って、現実から少しだけ宙に浮いた心持で、自身を取り巻く現実についてを思っている。俺は思ってきた。

俺はもちろん若い人間には当然というべきか――意味のあることをしたいと思っていた。恥ずかしい話だ。なにが恥ずかしいかと言えば、俺が正直に話そうとする部分すべてに「恥ずかしい話だが」を付けて逃げ道を作ってしまうことだ。それ以上に恥ずかしいことなんてどこにもない気がしている。

無為に流れていく日々の中で、俺は単調さと曖昧さを許してここまで来てしまった。実に長い時間を費やしてしまった。その理由はもちろん、自分が受け取った、感じたすべてが最終的には意味のあることになってくれて、何かに、場所でもどこでも導いてくれて、バカみたいな話ではあるが信念とかそういうものにつながってくれると、冷笑しつつも固く信じていたからだ。

しかし、今の俺はこれまでしてこなかった日記をつけ、青空を見ないことが怖くなり、外を歩くようになった。

特に10月や11月のよく晴れた日には。

 

あてもなく外を歩いていると、特に日差しが強くなりあたりがぼんやりとしてくる午後二時頃になると、だんだんと不思議な気持ちになってくる。

俺は連続しているのか? 

いつからか思っていることだが、とりわけ思うのだ。

これが本当に俺なのか?

はありがちな、子供の頃に想像した自分と現在大人になった自分が大きく異なっているとか、そういうのじゃない。

無駄に生きてしまうと自分が自分から離れてしまう瞬間が多くなってしまうし、長い時間が経ってしまって、それが本当にあったのかどうかわからなくなってくるのだ。

一度寝て目を覚ましたら、昨日もすべて等しく過去になっている。

たった一時間前が過去になり、電車で席に座りながら寝てしまった日には、自分の手をしっかり握らないと実感が持てない。

俺はさっきまで〇〇駅に居ていたのに、今は〇〇駅になっているじゃないか。青空が夕暮れになってしまっているじゃないか。ありえない話だし、まったく心の準備のできない話だ。

甘い夢を見ているような気がする。

 

日記を書いたり、青空を見に歩くと、救われる気持ちになる。

俺がというより、たぶん日々や時間が。

お焚き上げだよ。

 

 

世界のすべての七月

books.bunshun.jp

という本を随分前に読みました。

あらすじはこんな感じです。

 

30年ぶりの同窓会に集う1969年卒業の男女。結婚して離婚してキャリアを積んで……。封印された記憶、古傷だらけの心と身体、見果てぬ夢と苦い笑いを抱いて再会した11人。ラヴ&ピースは遠い日のこと、挫折と幻滅を語りつつなおHappy Endingを求めて苦闘する同時代人のクロニクルを描き尽して鮮烈な感動を呼ぶ傑作長篇。

 

人生の段階が進む、いや、それは往生際も質も悪い言い間違いで、無駄に歳を重ねるにつれて、内省的な話を読むのが結構厳しくなってきました。もちろん”無駄”って部分が大きいとは思うのですが、”多くのもの”ではなく、”可能性の多く”を失ったからこそ、そう思うのだと思います。

個人の問題としてではなく、一般的に、歳を取るほどに自由な可能性は目減りしていきます。だって俺たちはサッカー選手になれたしアイドルと付き合えた、世界征服だってできた。けれどそれがいつしか良い大学に、良い企業に、良い生活に、良い人生になっていく。
地に足がつくってやつです。当然あの頃みたいにはいかなくなっていく。

悪い話であり、良い話。

それは現状がこんな俺でも悪い話と言い切れない実感を持っています。力というより錘のような実感ですね。

自由になりたいなと思う中で不自由さに楽にしてもらっている。
何かを求めていながら、それを思い切り求められない現状に安心と、少なくない満足を感じている。

昔はそういうものが本当に気に入らなかったけれど、今では許しを持って見てしまう。

俺たちはもうどちらも知っていて、10代は終わって、20代も同じような終わりが見えている。その中で自身を顧みること——昔は過去を見る中に未来を見ていたけれど、もはや過去の中に望むような未来を見ることがひどく難しい。掌にある可能性よりも零れ落ちた可能性の方が目につく。時とともに悪くなっていく自分を発見し続ける。そんなものたちを認識し、目を逸らさずにみつめなきゃいけなくなる作業は、億劫でしかない。

だからか、意味のない頭と頭のやりとりの中で、10代から今まで変わらず期待していたことがあるんですよね。

 

歳を取り切れば、楽になれるんじゃないかって。

 

そんでこの本を読みましたが、まず第一に、うんざりしました。

なぜなら、終わんねえことがわかったから。

こいつら2000年で52歳になっても、結局は1969年度卒業生だった。

そういう話なんですよね。

取り返しのつかなさが、この作品の『老い』と『時間の喪失』と『現実』に本物の重みをもたせている。嘘じゃないことは確かだと思わせてくれるものがある。

歳を取ることで唯一いいと思えるのは、まだそこにみっともなさなりダサさだったり信仰だったり希望だったりを持っていたなら本当にしてやることができること、くらいです。

そうだと思えました。

なので第二に思ったことは救い(少なくとも慰め)になりえる、ということです。

でも現在の天秤はうんざりにかなり傾いています。

これが救いに振れるとき、俺は本当の意味で歳を取ったことになるんでしょうね。

0713

実は『総括—敗北―』って記事を無職が終わるまでに書いて下書きに入っているんですが、なんというか、”あまりにも”なんでこれは三箇月くらい寝かせるべきだろうと思い投稿できないま7月の中旬に来ました。

すべてにおいて総括をしないと前に進めないのではないかと思っていますが、葛藤なんて言えないレベルのくだらない逡巡の度に、どこかもわからない「前」にまだ進みたいと思っている事実に愕然とするわけで、まだそんなことを思っているのか? まだ? 笑えてきすぎる。

はやく、——どうにかなりたいもんです。何にもなりたくないけど、それ以外にそこに置くべきだろうと思える言葉が見つからない。どうにかなりたい。どこかへ行きたい。ここから出たい。あるいはここを受け入れたい。

 

煙草についてです。

昨今文字通りみんなから煙たがられているあの――ってくだらなすぎというかキモすぎですか?

煙草に憧れていた時期がありました。
大学生の頃、俺に金さえあれば煙草を手にしていた気さえします。
もっと言えば高校生の頃から酒にも煙草にも憧れていました。考えてみれば、後にも先にも自分が明確に欲していた物はそれらくらいだとさえ思います。

大学にしても高校にしても理由は同じで、
『終われる』から。

いや、もっと正確に言うなら、この耐えがたくままならない現在をとびきり悲観し続ける許しと言い訳をくれるから。

わかってくれますか?

煙を吸って吐けさえすれば自分について何を説明する必要もないと思えたし、自分のことを気持ち悪いとも思わずに浸り続けることができたし、きっと一人称を「僕」にしたままで、19xx年代の暗くて自分は自分はの音楽ばかりを聴いて、「僕は不幸です」と、そんな顔をして廃墟や廃れた町に自分を重ねることを厭わなかったはずなんです。

本当に失うことは酷く難しいことですが、失うフリは驚くくらい手にしやすい世の中です。ブックオフで雑に本を抜き取る感覚で、たやすく何かを失った顔をすることができる。

わかってくれますか?

 

欲しいクセしてそれを手にした自分の顔を思うと気色悪くて仕方なかった。

実際金や未成年なんて些末な問題すぎて、越えるなんて言うほどデカい障害でもなく、憧れながらも嫌悪して罪悪感すら抱いていたわけです。
あらゆるものに自分を重ねることが気色悪すぎてキモすぎて無理だったわけです。
その一歩になるには充分すぎる手段だったわけです。弱いか、あるいは虚勢を張り続けてる人間はきっかけ一つで簡単に「気持ち良い嘘の喪失」に流れるからです。誰からも何も奪われていないのに。

何が言いたいかと言うと、俺は俺なしに煙草を吸って、俺なしに景色を見て、ありのままのそれを――純粋に独立している美しさを肌身に感じてみたいんです。

自分の心を震わせるために、みんなを俺の道具にしたくないんです。

それが俺が持てる唯一の誠実さだと思い続けてるからです。

つまり決定的に叶わないということです。

 

わかってくれますか?

 

 

 

冬にそむく

www.shogakukan.co.jp

最近全くといっていいくらい本を読んでも呟かなかったんですが、『冬にそむく』はかなり言わせてくれよな作品でした。

下にあらすじを貼っておきますが、適当にまとめると、世界を終わらない「冬」が襲い、しかしそんな未曽有の現象に襲われても世界自体は終わらず、現実は続いていく。その中で主人公は一人の女の子と付き合っていて――的な話です。

 

終わらない冬のなか、二人はデートする。
年が明けてからもずっと「冬」が続くという異常気象。
気温のあがらない夏、九月に降る雪。コメの収穫は絶望的で、原油価格は上昇し続け、消費は冷えこんでいる。もう世界は終わってしまったのかもしれないと、人々は日に日に絶望を深めていった。

神奈川県の出海町にある海水浴場も一面雪で覆われ、サーファーも釣り客もヨットのオーナーも姿を消した。この町で育った高校生、天城幸久にはこれまで想像もつかなかった光景だった。降り続く雪でリモート授業も今では当たり前になっている。世界はもうすっかり変わってしまったのだ。

雪かきスコップを手に幸久は近所のとある場所へとやってくる。
金属製の門をくぐった先には、前面が総ガラス張りの変わったデザインの家が建つ。その敷地内で雪かきをしている女の子がいる。高校からこの町へ越してきた同級生、真瀬美波だ。彼女はこの家にひとりで住んでいる。
幸久は彼女の家へと通い、雪かきを手伝うことが日課になっている。

幸久と美波はすでに交際しているのだが、学校ではほとんど会話もしないため、クラスメイトたちは誰もその事実を知らない。
雪に閉ざされた世界のなか、二人は秘密のデートを重ねていく。

 

「冬」=「コロナ」だというのはもはやメタファーにならないまんまだと思いますが、ああ、と一致をして読み進められるのは事実で、実際それがかなりスタンスを定めるのを易くしてくれました。

高校生の主人公とヒロインが”既に交際しており”、彼らの日常を読者は見ていきます。が、俺たちはティーンエイジャーじゃありません。P.250まで基本的にいちゃいちゃし続ける様を見て心が動かされると言ったら真っ赤な嘘もいいところで、じゃあ俺たちはどこで作品と繋がっているのかと言うと、「冬」≒「コロナ」の部分なんですよね。
彼らの”傍から見ればただイチャイチャしている”様は、実際ただイチャイチャしてるに過ぎない。けれど彼らは決して切り離すことのできない、どうにかすることのできない、どうしようもない「冬」に囲い込まれている。それは程度の差こそあれある種の「冬」を味わってきた俺たちは推測し理解できる。多く濃く描写される「冬」がそれを助けてくれる。だから、俺たちは”傍から”見ていればいいし、それがこの物語読むうえで損はしない立ち位置なのだと、読み終わってから実感しました。

作者にまんまと転がされただけなんでしょうけど――。

ここで挟むのもなんですが、こういった『退廃した世界で、きどった、あるいは悟った男子と女子がうにょうにょエモエモする』みたいな話なんスカね~と正直危惧していたんですよね。実際巷にうんざりするほど溢れているので、そして俺はそういう作品が好きじゃないので、ビビってたんですよ。ところどころに示唆に富んだエピソードは差し込まれますが、ビビりを消せなかった。P.250までは。

P250から、彼らが俺たちに肉薄します。

ネタバレになりますが、彼らは死に惹かれていました。終わらない「冬」を終わらせる方法、この閉塞感から抜け出す方法、誰であっても完全に遂行できる方法は「死」です。それは俺たちも同じで、何かを完全にどうにかできるなんて、せいぜい自分の命くらいなんですよね。それくらいしかない。それだけは自由で平等でいてくれる。

視野狭窄だ、とみんなもそして当人すらも思う。そんなことは自覚している。けれど理屈でわかっても心では理解しきれない。
「冬」に青春を奪われなかった人間にはわからないことがわかりにくいかもしれない、でもあの頃確かに知っていたわからなさ。
思春期には自分で失くしていくものと、世界に奪われていくものの線引きがうまくできない。自分もわからなければ世界のこともわからないから、わからないまま、曖昧なまま目印になる折り合いをどこかに探す。物語に、音楽に、自分の大切なものに、あるいは好きな人に。きっと誰しもが、それらを頼りにして「冬」のような「春」を終えていく。

けれど「冬」≒「コロナ」という要因がそこに加わったら?

何を失くして何を奪われたのか、自分と世界は、その線引きは――雪に埋もれて痕すら見えず見出そうとして見間違う。現象に希望や不可能性をイメージしてしまう。

どうやっても「冬」は終わってくれないんだから。

 

この作品では、そんな暗い「冬」の中、ついに心地よい無音と無関係に支配される海に落ちて、むしろ彼らは助かります。

自分とはまったく関係ないと思える世界で、知りもしない家々が灯す光を見て。

それを読んだ瞬間に、”傍から”彼らを見ている”傍観者”で間違っていなかったと思わされました。そうやって俺と彼らはつながっているんだと。

それっていわゆる「社会」のつながりで、ごく当たり前に誰かの幸せを祈り成立しているしくみで、

言ってしまえば、「雪かきをしていく」、その営みなんですよね。

 

世界は変わらないし、「冬」もきっと終わらない。

 

それ受け入れて、意味ねえ「雪かき」の意味を知って、大人に少しずつ近づいていくんですよね。

 

以上。

アダルトチルドレン無職より、愛を込めて—――。

 

 

 

 

知ってますか?

どうでもいいことなんですけど、俺がアイコンにしてる、いやさせていただいている女の子はサラ・リ■ティというかつて存在したVsingerで割と有名だったのですが、”その先”については知る人ぞ知ると言った感じでしょう。

とはいえ知らない人がほとんどではあるので、曲を貼っておきます。
歌声がめっちゃいいんですよね。

”なんかネットにうpされてたので”聴いてみてください。気分が乗ったらとか容赦はしません。聴いてください。

 

youtu.be

 

”なぜか”音質はアレですがいかがでしょうか? よくないすか?

 

そんなVsingerがかつて存在した――つまりもう存在していません。
この前までは聴けた曲もほぼ聴けなくなっています。

なぜか?

なぜなら、彼女は途中から「サ■・リュティ」から「God father」になってしまったからです。

彼女のTwitter(現在凍結済み)もYoutubeアカウントも「God father」のものになっています。

彼女の動画は削除されても、彼の動画は残り、コミュニティは機能を存続しています。

見てみましょう。

 

……ありませんでした。

投稿がすべて消されていたようです。

また掘ったら共有したいと思います。

 

ただの紹介記事になっちまったお……

 

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いや、スマホにありました。

更新がなくなって数箇月経ったとき、この動画が急に上がったんですよ

 



これが、「God father」です。

 

空を見上げてる。(前哨戦)

3/31のものという既成事実をつくるために一旦置かせてください!

 

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4/10追記

今更思い出したんですが、『冥契のルペルカリア』で一番エロかったのは匂宮めぐりがパンツ落として主人公をからかうところだった