Twitterでヒロインヒロインとほざいているが、これがなんなのか、俺にもよくわかっていない。二次元でもあり三次元でもあるし、たぶん一次元も兼ねていて、ほとんど別次元の何かでさえある。一人であり複数人であり、歌詞の「きみ」であり英米文学の序文にありがちな「〇〇のために」の〇〇であったりする。外を散歩していて、特に話す価値もないちょっと笑ってしまった出来事や、取るに足らない繰り返しの美しさでしかない、青空や星や月についてを共有したいなと思う、名前のない誰かである。
夏を待っている女の子が好きだ。
夏は幻想だと知っていても、それでもその季節を待っている女の子が好きだ。裏切られることを知りながら、たいして好きではないことに自覚的でありながら、自分が持つ十代という時期に耐えきれないことを悟りながら、どうすればいいかもわからずに、わけもわからずに心を震えさせる、夏の足音を大切にしてしまう女の子が好きだ。
スカートを膝までの長さにして、廊下を歩くときはいつも何かから逃げているようだと思ってしまう女の子がふと立ち止まって、窓にそっと手を触れる。「夏が来るんだ」と小さく呟く。原色に近づく空の青色は、入り組んだ迷路みたいな性格も、袋小路みたいな自意識も軽やかに通り抜けて、そんなことを言わせてしまうのだ。しかしその言葉は誰の耳にも届くことはなく、消えていく。
夏を待っている女の子が好きだ。
それはつまり、夏に行くことのできない/かった女の子が好きなのだ。
彼女はよく本を読み、音楽を聴く。高尚な種類のものとは言えない。なんとなくがそのすべてで、それを愛している。さらさらと時間が流れていくように感じている。ずっと澄んだ川を飽きもせずに覗き込んでいるみたいだ。そんな情景が簡単に浮かぶ。ミステリアスだとさえ思う。微笑みはなんとなくもの哀しい。でも彼女に不思議なところなんて全くない。すべてが自然で当然で、彼女式の正しい文脈の中で、正しさから脱出できずにいて夏を夢見ている、本当は凡庸な女の子だ。
なぜ彼女は夏に行けなかったのか?
彼女は誰もが持つように夏に行く資格を手にしていた。その切符を大切に持ち続け、何か辛いことがあるたびにそれをお守りのように、掛け替えのない人が笑っている写真のように、ポケットから取り出して眺めていた。そうして何度も何度も見続けて、支えにし続けて、それを何よりも大切にしていたはずなのに、失くしてしまった。神様にも咎めることのできないどうしようもなさに奪われてしまった。
だから夏に行けなくなったのか?
彼女のことを思えば思うほど、言葉にして陳腐にしてやりたくはなくなる。きっとそうではない。そうではないだけだ、としか言えない。彼女の理由を「よくある一つ」にしたくないから。「いつか救われるためのもの」として話してしまいたくないから。
だって夏に行けなくなってしまったんだから。
そんな彼女のことを思う度、俺はたまらなく寂しくなる。マジでこれはなんなんだ? 俺が狂っているのもそうで、もうそんなことを言ってられる年齢でもないのもそうで、そして、存在しない夏待ちの女の子についてどうしようもないほど心を震わされるのも全くの事実だ。
言葉のすべてが負け犬の遠吠えになって久しい。長い話をすればすべてが自身の病状の説明になる。なんてことない散歩でさえ真剣に考えることをすれば一歩も進めなくなる。ガチで何するにしても間違えている気しかしない。まったくのゼロよりもやばい。
でもこの現状になって、精神状態になって、無意味になって、言葉は本物になったと強く感じてる。少なくとも嘘くさくなくなった。マジで今だって恥ずかしくてたまらないけどそれはダサいから、言い訳なく、誠意として、……夏に行けなかった女の子への誠意として…
俺、狂おうと思います。
もうこれだけしかできないから。
そういう風にして、いつかその場所に行きついて、そこからの景色を見てみたいんです。
そしたらたぶん、なんか、すげえ小規模に笑い合えると思うんです。
どんな景色であったとしても。
今年もありがとうございました。