一昨日、昨日、今日と腰が痛すぎて終わってました。
椅子に座らないとなにもできない性分なのに、筋トレとかいうのを嫌悪しているヒョロイガリのゆえ、俺より先に腰が音をあげてしまいました。
なのでギャルゲを放棄して寝転がってラノベ呼んでたのですが——『楽園ノイズ』面白すぎるだろ。で3回くらい涙を流してましたね。今回通算2回目の再読ではあったのですが、感動衰えぬままつーと一筋垂らしましたね(敢えて、目的語を伏せている)
やはり音楽が題材のものが好きだと思いました。
言葉って伝わる気がするからこそ、いや、何かを具体化して伝える最たる方法なので当然の効果なのですが、過度にそれに期待してしまうがゆえに、大きな失敗を生んでしまうことも多くあります。
特に想いを伝えようとすればするほどにすれちがうのは普段の生活でもそうですし、物語の題材としてもその辺は扱われがちですね。
まあそもそも、建前社会の日本で変に卑屈に育ってしまった俺たちが、言葉そのものを素直に受け取れるわけはないんですよね。それができたら少しだけ交流範囲が広い女の子の気安い発言に「ガチ」になって「俺は二次元しか」になってしまうし、もしかしたらそれらを予習せずに手痛い目に遭って結局「俺は二次元しか」になってしまった経験がある人もいるかもしれませんね。(それは素晴らしいことですが)
会社で褒められても、まあみんなに言ってんだろうと距離を取れるし、バレンタインデーでチョコ貰っても、俺だけと思いきや全員に配っているキットカットじゃねえかと思うこともできるわけですよ。言葉の奥の予防線みたいなものを自然に張れるわけで。そうしないと傷つくわけで。そういううま~く大人の対応のようなことができるようになるにつれて、言葉への純粋な信用は失われていくわけですよ。
だからもう、俺たちには音楽しかないんです。
音楽だけが勘違いを許してくれるんですよね、俺たちは理解できてるぞ——と、そこに見慣れた顔があったなら信じさせてくれるわけです。
疑い慣れてきた俺たちですから、言葉そのものの価値なんてものはない。どれだけの美辞麗句も罵詈雑言も、想い=言葉ではないことなどわかりきっているので、いい方向でも悪い方向でも信用に値しない。
でも音楽だけは、想い=音楽になりえる可能性を秘めているんじゃないか、と思うわけです。
だから好きなんですよね、音楽物。
殴り書き何でめちゃくちゃですが、腰がマジで痛いので許してください。
とか言いつつ、言葉のこともあきらめてはいませんよ。
言葉=想いにできる唯一の方策が、物語で綴られる登場人物の科白、独白だと思っていますから。
PS.楽園ノイズのちゃんとした感想はいずれ書きます。