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お焚き上げ

例えば気持ちの良い青空が広がっているなか部屋にこもり切っていると、一日そのものをふいにしてしまったような気分になってくる。
常のように意味のないことをしようと、歴史に洗練を受けた意義深い小説を読もうと、生活の実際の部分に役立ち「優」に直結する資格勉強なんてものをしたとしても、今日一日そこにいた青空を見もせず、全身で感じ取ることができなかった日には、どれだけ価値のある日だったとしても、なにもかも全部を台無しにしてしまった気がするのだ。

だからそんな日には、どうせロクなことが待ってなかろうと俺は適当に歩くしかなくなる。

誰もが考えなくても意味について考えているものだと思う。いや、考えるより思うが正しい気がする。これをする意味、ここにいる意味、そんなことばかりを思って、現実から少しだけ宙に浮いた心持で、自身を取り巻く現実についてを思っている。俺は思ってきた。

俺はもちろん若い人間には当然というべきか――意味のあることをしたいと思っていた。恥ずかしい話だ。なにが恥ずかしいかと言えば、俺が正直に話そうとする部分すべてに「恥ずかしい話だが」を付けて逃げ道を作ってしまうことだ。それ以上に恥ずかしいことなんてどこにもない気がしている。

無為に流れていく日々の中で、俺は単調さと曖昧さを許してここまで来てしまった。実に長い時間を費やしてしまった。その理由はもちろん、自分が受け取った、感じたすべてが最終的には意味のあることになってくれて、何かに、場所でもどこでも導いてくれて、バカみたいな話ではあるが信念とかそういうものにつながってくれると、冷笑しつつも固く信じていたからだ。

しかし、今の俺はこれまでしてこなかった日記をつけ、青空を見ないことが怖くなり、外を歩くようになった。

特に10月や11月のよく晴れた日には。

 

あてもなく外を歩いていると、特に日差しが強くなりあたりがぼんやりとしてくる午後二時頃になると、だんだんと不思議な気持ちになってくる。

俺は連続しているのか? 

いつからか思っていることだが、とりわけ思うのだ。

これが本当に俺なのか?

はありがちな、子供の頃に想像した自分と現在大人になった自分が大きく異なっているとか、そういうのじゃない。

無駄に生きてしまうと自分が自分から離れてしまう瞬間が多くなってしまうし、長い時間が経ってしまって、それが本当にあったのかどうかわからなくなってくるのだ。

一度寝て目を覚ましたら、昨日もすべて等しく過去になっている。

たった一時間前が過去になり、電車で席に座りながら寝てしまった日には、自分の手をしっかり握らないと実感が持てない。

俺はさっきまで〇〇駅に居ていたのに、今は〇〇駅になっているじゃないか。青空が夕暮れになってしまっているじゃないか。ありえない話だし、まったく心の準備のできない話だ。

甘い夢を見ているような気がする。

 

日記を書いたり、青空を見に歩くと、救われる気持ちになる。

俺がというより、たぶん日々や時間が。

お焚き上げだよ。