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8月31日について

この日に投稿した、ということにするために一旦投稿して手が空いたら編集で本記事を書くための——禁じ手を使わせてもらう。

 

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ということで。『夏の反省、しましょうか——』(現在は不本意ながら9月4日です。八月はずっと終わらないと思っていたのに、大変不本意ながら暦の上では終わってしまったようです)

 

結論から言えば、例年通り、いや、例年以上になにもできませんでした。
今年の夏こそ俺は——と思っていましたが、まあいつも身の丈に合わないことを夢想して現実にやられちまうわけで、今回も例に漏れずやられちまったようです。

俺がそう思う要因は小説が期日通りに完成しなかったからですね。ついさっき、110DPまで進めた小説をお蔵入りさせました。
9月末締切の公募には最低3作品出そうと思っていたのですが、一本すらできていない現状! 自分のだめさが本当に——以下略です。

だから少しでもマシになるために夏に居残ります、人生をコストにしてモラトリアムを作りだすような人間が、容易く去っていけるかという話ですね。
いや、今回だけはそうやすやすと負けを認めるわけにはいかない。勝つまで俺は夏に居る。じゃないとチートスキル『無色化』を使った意味がない——とガキっぽく叫んでいます。
意味意味拘ってうるさいのは、ガキですし(冷笑)、俺は当然ながら例に漏れずガキですから(熱血)。


夏、夏、夏、夏夏うっせーよ! となりますが、俺が夏を口にするのを憚るようになったら、いよいよ『人生』サードシーズンに入ったということでしょう。20代の内は来ないと思いますが、確実に到来を予見しています。
つまり俺も選ばれた人間(ずっと思春期に居続けられる人)ではなく、かといって捨てきれるでもない、中途半端な人間だった、ということですね。
けれどそれを認めるのが大人になることなのかといえばそんなことはなくて、そんな簡単な諦めとか分別をわきまえるとかではなくて、もっと良いものにしたいじゃないですか、「大人になる」ということを。
「ガキだった」俺たちへの鎮魂歌として、それぐらい正しく——いわゆる「立派な大人」になりたいじゃないですか。じゃないと誰も——いや、「ガキだった俺たち」は許してくれないじゃないですか。
他の誰にもかっこつけられなくたってよ。。。。。俺たちは俺たちにかっこつけていたいだろうよ。。。。。。。。。。

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そういえば暦上の夏の終わりに、あるブログを読みました。
大学時代を社会人数年目で終わらせられた話です。
社会に出ながらも学友と大学生の精神(社会になんか迎合してやらないぞ)を数年続けてきたけど、現実に圧されて、大学自体の友人たちと会う機会も減って、そうしてきちんと区切りをつけられた、という話です。

素直にいいなあと思って俺は読み切りました。
彼の世界にはきちんと生きている人間が居て、そして去っていく。或いは進んでいく。そして自分も進んでいこうと思える。
それがこれ以上なく正しい進み方なんだろうな、と。
その風景には自分との関係性が確かにあって、皆生きている。だから進んでいくことを許容し風景は広がっていく。


じゃあ俺たちってどうすりゃいいんだ?

そうです、俺の大学生活は始まっていなかった。

これは二十歳になる前にきづいたことですが、人生できちんと意味があるのは、人との出会い以外にない。それ以外は——自分の掌の中で収まって、風景を何も変えてくれないものは、どれだけ優れていようと意味を信じ切れない。
俺たちお得意の冷笑は、誰を一番冷ややかに笑うかといえば俺たち自身です。
結局自分の目で見れる自分の全てに空虚さを見ざるを得ない。

それを打ち崩してくれるのは他人しかいなく——。
けれどこの車窓は人の居ない風景しか映さず——。
物語と音楽は優しくなく——。

俺たちってどうすりゃいんだ?

 

 

 

 

 

そして次の曲がはじまるのです。