元気にやってるか?
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俺たちはとっくの昔に自分の汚さにほとほとうんざりしてしまって、そいつらを全て置き去りにしてくれるようなたった一つの美しさを求めていた。
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元気にやってるか?
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俺たちはとっくの昔に自分の汚さにほとほとうんざりしてしまって、そいつらを全て置き去りにしてくれるようなたった一つの美しさを求めていた。
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お疲れ様です。暇です。
早速ですが、あの約束された名作、『サクラノ刻』をプレイさせていただきました。
僕自身の正直な感触としては前作の『サクラノ詩』を越えることはありませんでしたが、もし前作をプレイしているのなら”やるべき”な作品であることは間違いないし、実際何度もうるっときたし実際泣きました。
メーカーであるケロ枕さんの作品群、『終ノ空』『素晴らしき日々~不連続存在~』から『サクラノ詩』。ネットの空気やレビューの感じを見るに哲学的で深淵な内容なんでしょ? と敬遠される方もいると思うし僕もビビってた節はありますが、感動は理解を越えてくれるので、ぜひ安心してやってみてほしいです。
どうでもいいことですが、なぜ越えなかったのかという理由は、前作の『サクラノ詩』がマジで大好きだということもあり、期待値を上げすぎたのもあると思います。本当にしぶらず正気のまま初回盤に一万越えを突っ込めるくらい、僕にはめったにないくらい楽しみにしていた作品だったので。それでも確実にやれてよかったし、読み進めてるときには幸福を感じていました。八年という月日は、これだけ綺麗なグラフィックや印象的な演出、劇中絵画をもってくるのに必要な時間だと思えました。
しかしながら、僕は『サクラノ刻』をやるために『サクラノ詩』もやってくれ!
ということを声を大にして言いまくりたかったのですが、『サクラノ詩』をやったなら『サクラノ刻』もやってくれ! という言葉が適切かなあと思います。
とはいえ、これ以上のエロゲがこれから生まれてくるのか、と言われると……。
以下、ネタバレ有り感想です。
哲学周りの話は数々の素晴らしい考察や解説をしてくれる方々がいるので言いませんが、というか頭が良くないので言えませんが、むしろかっこつけてすみませんでしたが、よかったな~と思ったことを言わせてください。
全体
全体を通して、すべての人のために語ってくれたことが非常に良かったと思います。
物語を牽引していく天才はもちろん、才人、凡人、それにとどまらずどうしようもない人間(トーマス)や弱者に寄り添ってくれる美を描いてくれたことに感謝です。
直接的にも僕たちの話にしてくれるんだなと。
とはいえ、片貝が実は院卒で特許とって会社起こして失敗していて「うだつが上がらなく」なっており「草薙、お前はいいよなぁ~」と期間工を”演じていた”のにはマジで置き去りにされた気分でしたが……。
Ⅰ
面白かったです。
まさかここまで本間麗華が可愛く感じられるとは思っていませんでした。
この可愛さの描き方は非常に好きで、大多数としてみたら最悪でしかないんだけど、誰かからみればそんなことはない、というような。超不格好な多面体、嫌われる面がデカすぎでしょ……、良い面小さすぎでしょ……みたいな。
それがキャラクターとして成立しているのが好きなんですよね、美というテーマと信念がなせる技でした。
最後の『本物』への慟哭、全編通しても上位の好きです。
まぁ、Ⅴで多くの人が許しちゃいそうなシーンありますが。
Ⅱ
一番好きです。
マジで。
シリアスな作品のこういう部分が好きで、一生続いてほしいと思う。
最後に新弓張美術部と手をつないでの直哉の独白は言葉にできないくらい良かった。
Ⅲ 心鈴ルート
唯一の生徒攻略キャラクターですが、生徒はあくまで属性に過ぎず、『芸術家』としてのキャラでしたね。虚無を見つけて、その先に美を見つけて、そして恋を見つける、あるいは見つけられる。
これこそ「ややご都合主義のハッピーエンドで終る」、って感じを受けました。
前作の稟ルートで感じた普通のエロゲ感があるルートですね、シリアスなこの作品では差し色みたいに機能してる。恩田放哉の言葉が良い締めだったなと思います。
後々明かされることですが、心鈴の師匠は圭です。
なので実質圭ルートでしたね。
Ⅲ 真琴ルート
心鈴ルートより良かったです。結構刺さりました。
「青春の後始末」って感じで。大人になるとほぼ不可能に近いっすからね、未練たらたらの青春の処理。負債として残り続けるくせに温かくて大切でどうすりゃいいんだよという話。
大学生や大人の制服ディズニーなんてクソだと思う僕ですが、だからか真琴がすげえ可愛く感じられる。昔は普通で当たり前だった輝かしすぎる青春。大人の今、それを見つめるにはロールを用意しないと眩しすぎて不可能。演じてると思わないと顔を向けることだってできない。距離を取ることでしか近づけない。
かわいいねえ……。
手をつなぐシーン、そしてキボウについての回答、すべてが満足できる良いシーンでした。
Ⅲ
本筋です。面白かった。教師か芸術家かの選択で芸術家を選ぶルート。
恩田放哉との議論は名シーンの一つだし、美〈カリエス〉の饗宴? だったかは忘れましたが、『奔らせる』のは超わくわくしましたね。
そんなこんなで父が世界的芸術家の二人の対決ではない対比は最後まで続きます。
二章好きの僕ですが、生徒からの言葉もあったし納得ですね。
脇に逸れますが、やっぱり栗山くんの存在ってあってもなくてもいいよな……(心鈴ルートでいてくれてよかったとは思いましたが)
三章の分岐点は直哉が教師か芸術家かで、それにより心鈴と寧の勝負も関係性も変わります。上の個別では二人の仲はいい感じになりますが、本筋ではそんなことはなく残酷です。芸術家としての判断を寧に直哉は下します。
ここで話したいことは仲を取り持つことができた個別世界線です、ここじゃねえだろとも思いますが。
心鈴と寧、二人が芸術を求め、ゆえに軋轢が生まれ続けてしまう。才能、本物、偽物、美、壮大なものの戦いではあるし、家問題や因縁の話もあるし、どうやったらこの重くて手が届かないような場所にある糸は解けるのか……と見守りますが、その結び目がひどく幼稚で、且つ普遍的な感情でできているとわかり、解けます。憧れ。こういう解決は好きだなと思いますね……二人の重さがけっこうだったので目新しく感じましたが、今書いてみると特殊って感じもしないので、ただそういうのが好きなだけなんでしょうね。だからなんだよお前、っていう話ッス。
サクラノシリーズ、かなり血(芸術的な意味でも血縁的なつながりでも)が大事なのでお家騒動的なものは必然的なんだろうと思いますが、僕はお家騒動にほぼほぼ関心がなくそこはクリックが止まる部分ではありましたね。好き嫌いの話です、好き嫌いの話しかしてないブログなんですが。
Ⅳ
夏目圭の過去編です。満足です。
元々構想はあったと思いますが、後付けの枠組みの仲でこんなに整合性がとれて面白いものができるのか……とビビりましたね。
『サクラノ詩』しかり過去編に間違いはないです。泣きました。
Ⅴ
一番物議をかもしているところだと思います。
僕は超好きだというヒロイン、いわゆる推しキャラはいないので(強いて言うならルリヲですが)あるあるなフラストレーションはありませんが、それでもとてもいいシーンもやや不満なシーンもあり、かなり評価が難しいです。
■良い
・直哉と圭まわりのすべて
→完璧だと思います。行けよ、ヒーロー。
・長山香奈
→ここについても完璧だと思います。”来世”と”デブメガネ”。天才才人凡人について、本物偽物、詩からやってるのに面白つづきです。
・ムーア残念会から稟への挑戦権勝負提案まで
→ここは作中屈指のわくわくポイントだと思います。サクラノ詩キャラ登場しまくりでアツいし、誰もが直哉のことを考えているのが伝わってきてとても良い。
・後半急につく直哉ボイス
・幸福の王子の心臓をツバメに届かせるためにすべてを捧げたヒロインズたちの想い
・地獄の面倒を見る鬼
→麗華です。
・直哉の作品が燃えて圭の向日葵と同じサイズのキャンバスになる。
→『人』を描くようでかなりぐっときました。
・明石、トーマス
→ここは言うまでもないですね。
・劇伴! エンディング! エンディングの挿絵!
■微妙
・サクラノ詩ヒロインズのあっさり感。
→なんだかんだ一番の不満点はここかもです。雫が喋ったの「処女です」って言いに来たくらいしか記憶してないまである。いやいや、ならどこでがっつり会話すんだよ……って話ではありますが。さすがに里奈、稟はもっと喋りますが、一番喋って且つ印象的だったのは優美だったっすね。デイトレで億動かしてるみたいな枝葉が一番印象に残ってる現状。
台詞数が印象を決定づけるものではないと思います、だからこそ物足りなかったですね。
・直哉VS稟
→稟の想いについてもう少し欲しかった。
まあ稟的には直哉が再び筆をとってくれただけでもう満足なのかもしれませんが。
・稟への挑戦権勝負
→観客がいての即興絵画。まさに長山が活躍するために設えられた舞台(こういう勝負以外に長山が勝てそうな条件がなさそう)なので長山については最高なのですが、氷川がどうもあっさり負けてしまいすぎたかなあと。天才性ゆえに負けたというのは説得材料として確かですが、もうすこし天才性で食い下がってほしかったですね。
・神秘的な力、オカルトチックな手段
→これはかなり好みの問題だと思います。
総括
『すば日々』『サクラノ詩』『サクラノ刻』をやって思うことは、よくここまでのテーマをエロゲの文脈で伝えることができるなあということです。
すば日々はエロシーンも特殊性癖も幸福に生きよ!で丸め込みましたし、サクラノシリーズに至っては『人生』だから当たり前にそれはあるし、エロシーンいらねえよw とかいう軟弱者を弾き飛ばしてくれる。
というのは冗談風の本音ですが、実際、哲学的なものをキャラに言わせていきいき動いて魅力的に見せるって、そうそうできることじゃないだろ……と思います。
それでいて、いや、きっとすかぢさんの好みも感じますが、シリアスなストーリーラインのなかで少年漫画的エンタメ対決を用意する(すば日々のともさねくんの章や人格との対決や、刻のライブペインティングバトル)あたり、これもわかりやすさと爽快感の要因になってるなと思いました。
種類的には異なりますが、刻でも神絵師のくだりや引きこもりがエロゲ作るようになるくだりは題材的にはとても軽いし、なんというか、
――全部盛りしてんだよな、オタクを。
それが一つの作品として高クオリティで成立するのを目にする度、とんでもなさを痛感します。
ずっと待っていたゲームをプレイでき、マジで幸福な時間でした。
俺も””””奔って””””いいか?
都落ち県某所、初回特典ドラマCDのレズシーンを聞きながら。
お疲れ様です。暇です。
現在二時三十四分、俺は、何もしていません。
ただPCを開いて閉じたりして、電気もつけず、いつものように適当に音楽も動画も流すことなく、暗闇と静寂の中にいます。最低の暇つぶしTwitterのTLさえ動かず、割くべきほかのことは多くあるけどまったくやる気にならない、そんな状態です。
たぶん真実の時間があるとするならば、今、この時間なのだと思います。
十代の頃、そもそも中途覚醒しかしない俺は、ふと深夜に目を覚ますことがありました。あるいは、眠れない夜だったのかもしれません。スマホなんてものもなく、あったときは触る気さえ起きず、とりあえず椅子に座るけれど、何もせず、ただ、ぼーっと部屋を見回すだけ。当然なにもなく、カーテンから差し込む灯がほのかに揺れるだけのような、その程度のささやかすぎるものしかない時間です。
ふとすべてが懐かしくなるのですが、記憶の抽斗が固く閉ざされていて、感傷の感覚だけがあり、その形がなんだったのか、さっぱりわかりません。もはや匂いみたいなものになっていて、冬の夕暮れ前、夏の木漏れ日に当たった時に感じるそれと、大差ないように思います。
その昔、記憶力だけには自信がありました。
特に小学生の頃なんて、誰と何の会話をしたかだいたいすべてを覚えていて、キモがられたこともあるほどにです。今は純粋に存在がキモがられることしかありませんが、かつてのそれは純粋に、学校まで遠く離れていて、一緒に帰ろう、などということが友達とできなかった寂しさ由来のものかもしれないけれど、色々を覚えていられました。
けれど今は、さっぱり覚えていられないんです。
昔のことさえよく思い出せなくて、ただあった感覚だけが残っている。
もはや大切だと思うことすらないのかもしれませんね。それがさらに寂しくさせてくる。結構人間は麻痺できるというのに、そしてそれは適合と言い換えられるのに、掴んでいたそれを忘れても手触りが居座って、逆算のようにその不在を言い渡してくる。器官が備わっている限り逃れようもなくふと香ってくる。そこに昔みたいな心地よさはない。辿ることも立ち止まることも見つめることもできないものにそれはなってしまっている。抗ってつべこべ言ったとしてもそれは間違いだけを重ねる徒労でしかない。
ですが。
ただ、この時間だけは――真っ暗闇の中、ちらちら無機質な光が揺れるこの、なにもできない時間だけは、あのときと重なる気がするんです。きっと少しはずれているけれど、およそ手と手をつないだ時に触れあう範囲くらいはしっかりと重なっている。
そんな気が。
学校の中では生きられない人もいる。
そんな人をたくさん見てきたし、そんな人は美しいまま、死んでいきました。
その軽やかさと鮮やかさは目を背けたいくらいで、けれど見つめる以外は重大な罪を犯しているようで、許されざる背徳のようで、それが失われていくことを見ることしかできないし、そこに宿る永遠性で自分を慰めることしかできない。
酷い欺瞞を許して呼吸をする自分が情けなくなるとき――失われたはずのそれや、損なわれた美質が問いかけてくるんです。
そのとき思うことは、やはり、
学校の中でしか生きられない人もいる、ということです。
思い出さえ霞んだ場合、
果たして、俺たちの同一性はどうやって保たれるのでしょうか?
あのときの俺たちは今の俺たちとどう接続されるのでしょうか?
ようやく最近思います、死にたいあのときだけがまともだったのだ、と。
お久しぶりです。暇です。
今年もお疲れさまでした。
ふとした瞬間に更新しようと思ってるんですけど、気づいたら内容がほぼ全て『呪詛』になりこれマジでたとえ墓場にもぶっさすもんじゃないだろ……になってたので全然更新できてませんでした。俺、4月の方は毎日かいてくぞ! みたいなフレッシュな気持ちがあったんですが、もちろんのごとく怠惰さそして日常のなにもなさ、そして何より自意識に阻まれて無理でした。それにそこまで語れる内面というものが俺にはなく、あるとしたら世界に対してガムを吐き捨てるような終わった不満と抵抗感のようなものくらいで、Twitterのくそくだらない140字にぼんやりと込めていた方がはるかにおさまりがよくそこで朽ちさせとく方がましだなという感がある。
合唱に鼻歌は持ち込めませんしね
(キッショ)(サッム)(死ね)
観客も盛り上がってきたようです。
正直に言ってしまえば、無職になってからこんなにも時間が経ったなんて信じられません。別にこれは俺が高校生であっても大学生であっても社会人であっても同じ答えなのですが、今回は一段と度合いが上がってます。なぜならば、この期間を肯定できるものが、わかりやすいものが一切ないからです。
”現時点”で、俺は、”負けて”やっているということです。
(お兄ちゃんださすぎる!)
人生に意味があるものといえば、誰かと出会えることです。
何かが成せる人間は、誰かと出会わなくたって何かを成せて有意味な人生になるのは事実だし、(呪詛になってたので該当箇所削除しました)、特に場所なんかにはこだわらなくても特別な思いを抱かなくても問題ないですが、いや、まああいつらってサッカーも盛り上がれるしどうせ友達もたくさんなんでしょうが、
すみません、これは俺たちの話でした――《もしも》俺たちがそっち側だったら、友達なんかいらんくね? って言えちゃうと思うんです。強がりでも、そして欲しくて欲しくてしょうがなかったと思いながら人生を閉じる際にも、そう言い切れると思うんですよね、だって人生を肯定してくれる意味があるから。
では俺たち――いや、現時点での”俺たち”になんの意味があるかといえば、別に何もないんですよね。いや、過去にはあって、そして多くの場合で失いましたよね。そして可能性も見間違えた星の明るさ程度に細まる中、「それでも人生は続いていく」。そんな中で何か慰めを探ろうとすれば、誰かと会えたことそれだけなんです。
どうせ次の世界で会いもしないだろうけど、ここでは会うことができた一回性は俺たちの何も為せなかった人生を肯定してくれる。
あの失敗を肯定してくれて、あの恥ずかしくて思い出したくないようなものを肯定してくれて、くそみたいな場所にいたことを肯定してくれて、つまりは人生を肯定してくれる。
全てが直接的にか間接的にか結びついて誰かと少しでも親しい会話をできさえすれば、まあ、悪くなかったよ、と言い切ることだってできうる慰めが生まれる。
(まあ俺の場合、会社の同期と先輩に優しくしてもらったんですが、そんな優しい人たちに”惨めな”俺が連絡をとれるわけがないだろうということで、お誘いを断ったきり二度と誘われなくなったのですが……。)
中学時代や高校時代、そこそこ仲が良かった、あるいは仲が良かった人がいて、今では一切関係がなくなって、ふと、「あれは何だったのか」と思うことがありませんか?
俺はありました。
話はそれますが、友達とか気恥ずかしくてそんな言葉がつかえないし今だって使えないかもしれない。でも、関りが一切なくなってからは友達だったと素直に言えることができるらしいんですよね、最近の気づきですが……
ともかく、俺がそんな関わり方しかできてこなかったという説が有力だし、そういった慰めしか手段を持たないせいなのか、だとしてもそこには言葉と空気と時間が確かにあって、別に何も損なわれても失われてもいないのではないか――
すみません、ここで自意識が発動してしまったのでこの話題の続きが書けなくなりました。
最近思ったことを書いていきます。
・幸福の人間も不幸な人間も酔ってるけど、不幸を自称する人間の酔いで煙草やアルコールが利用されてることムカつくよな?
世界にはきっとそれしかない人がいて、大抵不幸自称の人間は「すべてを理解してくれる恋人ほしい!」程度をでっかくでっかく語っているだけだからなおさら苛立つし、しかも大抵あいつらには友達がいる。
・「恋人がほしい!」的な叫びをSNSでよく見かけるのですが、これって、「友達がほしい!」より切実さを欠いている気がしません? 友達のほうは、なんか純粋に誰かとのかかわりあいを求めてる気がして好き。(差し迫った方が話題にするのは全然いいのですが!)
・自称”祈り”勢がマジでイラっとする。そう、音楽も物語も消費されているんだぁー!的な作品が両方面に多すぎる。特に聞いてみ?最近の邦楽。もうそんなんばっかりだからね。メロディーがいいくせに最悪なんだよな。こいつらって無神経だから自分らが大事に大事に守ってると思ってる”ほんとうの美しさ”汚してることに一切気づかないんだよな。語り方で全て察してしまうよね。同じなんですもん!
・これクソどうでもよくね?
・これ負け犬の遠吠えじゃね?
抱負でもいきますか。
そうです、結局言いたいことはただ一つ――。
いつか負けた『フリ』をやめて、俺たちで勝ちましょう。
お兄ちゃん、これ星に願っても無理なやつだよ……と脳内の実在してる真実の実妹が囁いてきました。
この一年間の良かったことと言えば、負けたことです。
負けている限り、全て優しい、馬鹿みたいで無意味な言葉になります。
それだけが負け犬の唯一優れた点だと、それだけは思います。
まあ、これも負け犬の遠吠えなんですけどね。
※俺"たち"とよく言っていますが、これは信仰でしかありません。
何が面白いって、
神様が「俺がここで終わる人間」だと思ってそうなところだよな。
お久しぶりです。暇です。
夏は終わらないんだが、まだ八月○○日(31より大きい任意の数字)なんだが、と歯を食いしばって抵抗していたシーズンは、純粋な寒さによってやられてしまいました。
精神で抗っていたとしても、外を歩いているときに肌に刺さる冷気で簡単に納得させられてしまいます。
ーー夏、もう終わったんじゃね? と。
こういう種類の気づきはあまりにどうしようもなさすぎて、もう言い返すことを諦めさせてくる。毎度毎度敗北感を味合わされる。もう敗北感しか味わったことがない。
秋は心地よい季節すぎて、何もしないとただただ緩い幸せがダラっと続いている感じしかなく、ぼーっとしているとさよならの手前に来てしまっている、まさにそんなやりにくい季節です。
触れられるわずかな現実では何のざらつきもなく、無…故の、暗いとしか言えない『将来』(いつからルビが”ぜつぼう”になったんだ? いや、そうさせたのは俺、です、か)が傍らで息を潜めていて、実体の無い焦燥に振り回されてばかりのーーガチでうぜえ季節。
夏か冬であれば、暑かったり寒かったり汗出てきたりうるさかったり毛布から出たくなかったり、それを形にして対象を恣意的に決めることができるからこうも焦燥感を抱くことはないのですが、秋というやつはやっぱり快適すぎて、てざわりがまったくなく、悪いのは俺しかいなくね? と悟ってしまうには充分すぎる。
神様、悪いのは俺でした。
じゃあどうすればいいか? 正しいことをすればいいのは知ってるけれど、
もはや正しいことをしなければ俺は一生このままなんじゃないか、だから少しでも正しいことを、そう思えることをしようと思うにはもう思うだけで摩耗してしまい、
自己嫌悪さえきちんとできなくなった俺たちはどうなってしまうのか?
終わります。
終わってしまうんですよね。
自己嫌悪しないためにという後ろ向きすぎる理由でかすかにマトモぶれ、まるで白線の上を落ちないように歩いてきた俺たちには消費期限がどこかに貼られていて、そこには「自己嫌悪が尽きるまで」と入れられている。
そもそもこんなもんじゃね? と思ってしまったら最後、本当にそれだけで呼吸してると下がいよいよギリギリのラインに来てしまう。街の中に居る、何となく世界を憎んでいそうな満たされていないオッサン。
アレは、俺……なのか?
まさしく、俺の可能性の一つだ……。
アレを見て見下せる人って、おそらく健全なんですよね。
近い部分を少しでも見てしまったらーーはじまってしまった証拠。
嫌悪していたものに自分が近づいていることに気づいてしまえばーーってホラーかよ。
ホラーなんだよ。人生のジャンルは。つまんねえホラー。本人しか怖くないホラー。
まあ、わかってるんですよ。
ゴミみたいな日によく空を見上げて世界はこんな日でも綺麗だよなと主人公らしく振舞うことがよくあるのですが、あれってとどのつまり、ゴミでカスなのは俺たちだけなのを確認している作業なんですよね。
何かを諦めたときに空がきれいに見えるのも、こんな日なのに景色が綺麗なのも、自分から離れているものは全て美しく見えるに決まってる。
こっぴどく雨が降って欲しいし、台風とか来て全てを終わらせてほしい。俺たちと同じになってほしい。でもそんなときに限って優しくないあいつらがうざすぎる。
平穏で幸福なだけの秋が嫌すぎる。
まあ、わかってるんですよ。
答えなんてものはーー。
ただ生きるにせよ死ぬにせよ幸せになるにせよ楽になるにせよ、
俺たちはただ、俺たちが心から納得できる式で、超つまらない普遍的で凡庸なそこに辿り着きたいだけなんてことは。
そんなものがあるのか? という話ではあるんですけどね。
走るとかもう無理だし、這うしかない。
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けれどまだまだ救いではあるんですよね、
綺麗なだけで何の意味もない景色に感動しなくなったらどうすればいい?
これがなくなったらもうどうすりゃいいんだよ。
※俺"たち"とよく言っていますが、これは信仰でしかありません。
この日に投稿した、ということにするために一旦投稿して手が空いたら編集で本記事を書くための——禁じ手を使わせてもらう。
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ということで。『夏の反省、しましょうか——』(現在は不本意ながら9月4日です。八月はずっと終わらないと思っていたのに、大変不本意ながら暦の上では終わってしまったようです)
結論から言えば、例年通り、いや、例年以上になにもできませんでした。
今年の夏こそ俺は——と思っていましたが、まあいつも身の丈に合わないことを夢想して現実にやられちまうわけで、今回も例に漏れずやられちまったようです。
俺がそう思う要因は小説が期日通りに完成しなかったからですね。ついさっき、110DPまで進めた小説をお蔵入りさせました。
9月末締切の公募には最低3作品出そうと思っていたのですが、一本すらできていない現状! 自分のだめさが本当に——以下略です。
だから少しでもマシになるために夏に居残ります、人生をコストにしてモラトリアムを作りだすような人間が、容易く去っていけるかという話ですね。
いや、今回だけはそうやすやすと負けを認めるわけにはいかない。勝つまで俺は夏に居る。じゃないとチートスキル『無色化』を使った意味がない——とガキっぽく叫んでいます。
意味意味拘ってうるさいのは、ガキですし(冷笑)、俺は当然ながら例に漏れずガキですから(熱血)。
夏、夏、夏、夏夏うっせーよ! となりますが、俺が夏を口にするのを憚るようになったら、いよいよ『人生』サードシーズンに入ったということでしょう。20代の内は来ないと思いますが、確実に到来を予見しています。
つまり俺も選ばれた人間(ずっと思春期に居続けられる人)ではなく、かといって捨てきれるでもない、中途半端な人間だった、ということですね。
けれどそれを認めるのが大人になることなのかといえばそんなことはなくて、そんな簡単な諦めとか分別をわきまえるとかではなくて、もっと良いものにしたいじゃないですか、「大人になる」ということを。
「ガキだった」俺たちへの鎮魂歌として、それぐらい正しく——いわゆる「立派な大人」になりたいじゃないですか。じゃないと誰も——いや、「ガキだった俺たち」は許してくれないじゃないですか。
他の誰にもかっこつけられなくたってよ。。。。。俺たちは俺たちにかっこつけていたいだろうよ。。。。。。。。。。
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そういえば暦上の夏の終わりに、あるブログを読みました。
大学時代を社会人数年目で終わらせられた話です。
社会に出ながらも学友と大学生の精神(社会になんか迎合してやらないぞ)を数年続けてきたけど、現実に圧されて、大学自体の友人たちと会う機会も減って、そうしてきちんと区切りをつけられた、という話です。
素直にいいなあと思って俺は読み切りました。
彼の世界にはきちんと生きている人間が居て、そして去っていく。或いは進んでいく。そして自分も進んでいこうと思える。
それがこれ以上なく正しい進み方なんだろうな、と。
その風景には自分との関係性が確かにあって、皆生きている。だから進んでいくことを許容し風景は広がっていく。
じゃあ俺たちってどうすりゃいいんだ?
そうです、俺の大学生活は始まっていなかった。
これは二十歳になる前にきづいたことですが、人生できちんと意味があるのは、人との出会い以外にない。それ以外は——自分の掌の中で収まって、風景を何も変えてくれないものは、どれだけ優れていようと意味を信じ切れない。
俺たちお得意の冷笑は、誰を一番冷ややかに笑うかといえば俺たち自身です。
結局自分の目で見れる自分の全てに空虚さを見ざるを得ない。
それを打ち崩してくれるのは他人しかいなく——。
けれどこの車窓は人の居ない風景しか映さず——。
物語と音楽は優しくなく——。
俺たちってどうすりゃいんだ?
そして次の曲がはじまるのです。